本 本の森 古びたインクの臭い くすんだ紙の香り 樫の木で形作られた本棚に並ぶありとあらゆる本、本、本 ジャンルとして目につくのは舞台の脚本。 著名な物語を有名な脚本家が練り上げ、大ホールで劇団が演じた時の原本もあれば、 どう見ても素人の手慰みに作られたアングラ芝居の脚本といった風情のものも少なくない。 近年出版された本は店外のラックに放り込まれ、おそらく吟味もされずに一冊100円と乱雑に書かれたコピー用紙と共に放置されていた。 店内を眺めていると、不意に声がかかる。 「いらっしゃいませ」 よく通る透き通った声で挨拶して、少女はゆっくりと顔をあげる。 レジの横に置いた木製の椅子に座したまま、その少女は手元の文庫本に栞を挟んで畳むと積み上げられた本の一番上に重ねた。 本を選ぶでもなく店内を歩いていた訪問者が、店番をしている彼女を見つめて立ちつくす様に、当の彼女、南河昴は少し戸惑ったように首をかしげた。 その横で本棚の上に座ったドッグフォームのセクタンも同じように首をかしげる。 およそ五秒ほどの不思議な沈黙の後、セクタンのアルビレオがふわぁと欠伸をして、昴は「ああ、ロストナンバーの人だね」と柔らかな微笑を浮かべた。 「あらためまして。ようこそ、古書店モロイへ。ツーリストのひとだね」 ツーリスト、という言葉を選んだのはターミナルから来た人物だという確認が含まれる。 図書館からの依頼のついでにね、とこたえると昴は満足気に頷いた。 「うん。それで、今日はどんな本をさがしにきたの?」 言われてから改めて見渡す一般書の書架にはジャンルどころか規則性も見当たらない。 手を伸ばそうとして、普段からあまり読まないジャンルの本に指がぶつかり、取り出すまでもなく引っ込めた。 「ああ、そうか。ロストナンバーの人ならモロイのおすすめの本を用意しないとね。このみはある? ファンタジーでも、恋愛でも」 好み。 と、言われてもすぐに本の種類は出てこないものだ。 そんな風に客が戸惑う様子すら昴には慣れているようで、眠そうな微笑と共に返答を待つ。 それでも考えあぐねていると、やがて、昴はレジの隣にあった小さなノートを取り出した。 いくつか質問をするよ、と宣言しペン先を紙面に落とす。 「きみのうまれた世界は植物がたくさんあった?」 唐突に質問される。 返答をすれば、また次の。 それに答えても、さらに次の。 すべての設問はYES/NOで答えられるもので、 生い立ちや好み、出身世界で目にしたものを問うては返答をメモして、何かを考える。 やがて。 「ありがとう、これで質問はおしまいだよ」 そう言って昴の瞳がまっすぐにこちらの瞳を見返してきた。 穏やかに、目の端を下げ、口の端に笑みを湛えつつ、それでも何かを読み取るような。 視線をそらしてはいけない気がして、昴の目に見惚れていると、唐突に彼女は「うん」と頷いた。 「すこし、まっててね。たぶん、手前の倉にあるとおもうから」 サンダルを脱ぎ、奥に続く廊下へと足を運ぶ。 とととっ、と乾いた板の上を小走りに走る音がして。 「わわわっ」 不意に大きめの激突音がひとつ。 べしゃ。 今のは単純に転んだのだろう。 「い、いたたたた……。わ、わわわわわ」 数秒ほどして、どさどさという音がした。 まるで本の束を倒したかのような音である。 たぶん、店の奥ではその通りの光景が繰り広げられているに違いない。 助けにいこうかどうか少し迷ったものの、足音が聞こえてきたので大丈夫だろうと見当をつけ、訪問者は一番近い書架へと歩を進めた。 ――やがて。 すぐに戻ってこない昴を待ちつつ、手持ち無沙汰になった視線と手を近くの古本に伸ばし、適当に開いてみる。 その本は少しだけ古く、古い活字でタイプされた表紙はやや日焼けしてくすんでいた。 ページをひらく。そのまま次へ次へとめくるとぱらりぱらりと乾いた紙のこすれる音が本の森に響く。 やがて、どれほどの時間が経っただろうか。 昴のいたレジ横の椅子に腰をかけ、本に標された文字の羅列を追いかけていると、 背中越しに「あ、そこにあったんだね」と昴の声がした。 振り向いてみると、昴の視線が今、手元にある古書に注がれている。 「すぐそこにあったの? そう、うん。そんなこともあるかもしれないね」 そう言って少女は、ふふ、と笑う。 昴は探しに行ったアガスティアの葉は、実はすでにここで訪問者を待ち構えていたのだ。 「このお店にあるのは、ぜんぶ本。みたらわかるって? うん、それでね、ひとつひとつの本はかいたひとが、だれかになにかを伝えたくてかいたんだ。 大勢のひとにみてもらいたかったのかもしれないし、なにかを伝えたかったのかもしれない。 空想の物語をおいかけて、それを語る文字を羅列して、それを本のかたちにまとめたもの。 ここにある本だけじゃなくてね、どこの世界のどんな本にもそれを書いただれかのきもちがこもっているんだよ。 作家という仕事ができて生きるために、お金のためにかいたものなんて、どこにもない。 仮にそんな本があったとして、それでもその本をかいた誰かはなにかのきもちを本に残しているはずなんだ」 優しく歌うような心地良いフレーズの波。 昴の言葉はするすると胸に染み入って、溶けて、同化する。 「古書店モロイにいる本はかいたひとの思いを伝えるべきひとをずっとまっている。 もしかしたらずっとであえないかもしれないけれど。 それでも、おひるをすぎたら。ううん、ゆうぐれには。もしかしたらあしたにでも。 それが、来週でも、来月でも、来年でも。 いつの日か、かいた人の思いを伝えるべきひとに、自分をたくせる日をずっとまっているんだよ。 わたしがロストナンバーになったから、なにかのついでに壱番世界にくるツーリストさんがモロイに来てくれることがふえたんだ。 それはきっと、本が「なにかをつたえたい相手」が壱番世界じゃなくて、世界群のどこかにいるから、 だから、わたしがロストレイルにのれるようにどこかで手伝ってくれたのかもしれないんだよ。きみのその本もそうなんだろうね」 思わず、手元の本を見つめる。 暇潰しのために取った本。 昴の話が本当だとすると。 「それで、きみをまっていた本は倉にしまったはずだったんだけれど、どうしてもお出迎えをしたかったみたい。それなら質問は余計な手間だったかも。ごめんね」 様々な質問を道標として、瞳を覗き込んで見える光を方位磁針として、 聖者の預言を記したパルメーラを探すナディ・リーダーのように、 昴は膨大な本の中から、訪問者を待っていた一冊を探し出そうとしていた。 本を記した者が聖者であるとは限らず、刻まれた神託は作り話かも知れない。 あるいは、そう、例えばその神託が数十年前に栄えた繁華街で、美味しいランチの店を案内するだけの書かも知れない。 それでも、昴は本が訪問者を待っていたというのだろうか。 模倣犯アガスティアに刻まれた思いは訪問者に何を告げるのだろうか。 やがて。 訪問者は再び頁を手繰る。 それは遠い国へ旅をした旅行記なのかも知れず、 あるいは、ただの空想。夢物語なのかもしれない。 主人公はふとしたキッカケで列車に乗る。 汽笛の音がすぐ近くで聞こえたような気がした。 ロストレイルよりも古めかしいつくりで、もっと無骨な車両の話。 石炭を焚いて走るつくりであり、汽笛を鳴らす仕組みでありながら、石炭を燃やさずに走る列車の話。 木製の椅子に腰掛けたまま、一心不乱に読みこむ様を昴はにこにこと観察していた。 やがて、物語が終盤に近づいたころ、昴は再び奥へと戻り、銀のお盆にコップをひとつ用意して戻ってくる。 紙パックの牛乳をコップに注ぎ、訪問者が最後の1ページを読み終えたタイミングで差し出した。 「はい、ミルク」 最後のページを終えて、不思議な世界の余韻を残していたままで、 唐突に差し出された牛乳をきょとんと見つめた訪問者はやがてそのコップの中身を一気にあおる。 飲み終えたコップを受け取りつつ、欲しくなったかなと思って、と昴はまた笑った。 わふ、とアルビオレがあくびをする。 「その本はわたしがここで最初に本を探したときにてにとったものとおなじものだよ。わたしの時は第一稿だったけれど。 うん、この本を書いた人は何回も何回も書きなおして、それでも書き上げられないままでこの世を去った作家のもの。 完成していない物語を完成品のようにあつかうのは作者にいいことだとはおもわないけれど、 きっと、本になって、多くの人に読まれたのは、きっとその中に作者が伝えたいおもいがあったからじゃないかな、って思うんだ。 書いた本人の気持ちなのか、その気持ち自体が作家の満足や死を乗り越えて、広まろうとしたのか。どちらにしてもすごいことだよ」 にこにこと、まるで自分が書いたものを賞賛された子供のように昴は笑う。 「どうして作者が何度も何度も改訂をしたのかはわからないけれど、 それがただのリズムや韻のためなのか、そこになにかのトリックを施したのか。 残された初稿は完成を見ないサグラダファミリアだったのか、 あるいは、ベンメリア遺跡のように当に完成して今はもう自然の中でひっそりと滅びを受け入れているだけのものなのか。 おもいをはせるのはとてもおもしろいことだとおもうよ。 すでに解法はうしなわれているならば、物語のなかに封じられたおもいはずっとそのまま、 あるいは、もう誰かが解き明かしてしまっていて、そのまま読んでしまえば話は通じるのかもしれない。 どちらにしても、もしくは全然ちがう別のこたえがあるにしても。 今のこの作品は騙せない騙し絵だね。絵のなかにひそんでいるものの姿をわたしたちはしらない」 いつのまにか。 古書店モロイにはガラス越しに夕日が差し込んでいた。 数十分で読み終えられる古書のために数時間を費やしたことになる。 そろそろ行かなくては、次のロストレイルでターミナルへ戻ることができない。 訪問者が暇を告げると、昴は静かに頷いた。 「よかったら、また来てね。 ここにある本はいまのきみじゃなくて、あしたのきみをまっているのかもしれないから」 昴は店内をぐるりと見渡す。 つられて訪問者も視線を向ける。 本 本の森 古びたインクの臭い くすんだ紙の香り 樫の木で形作られた本棚に並ぶありとあらゆる本、本、本 本の中には物語。 物語のある世界。 世界を取り巻く宇宙。 宇宙に輝く星、銀河。 本 本の中は別の宇宙 本の森 古書店の書架は、さながら銀河の森。 「いらっしゃいませ」 レジ横で、眠たそうな顔をして、南河昴が出迎えてくれる。 壱番世界へお越しの際は、ぜひ、モロイ古書店にお立ち寄りください。 あなたのための本をお選びします。 ――この古びた書架の中で何日も、何年も、あなたを待ち続けていた物語があります。 あなたを待っていた本を、お探しいたします。 ようこそ、古書店モロイへ。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ 「というわけで、先日、お邪魔させていただいた時の手記が月刊ターミナルに掲載される運びとなった。 ただ、非常に申し訳ない。我輩の書いた手記の肝心要の部分がページの都合とやらで大幅に削られてしまったのだ」 兎型の獣人は耳をぺたりと寝かせつつ、雑誌を閉じた。 雑誌を片手に、あの時と同じように昴は同じ格好で、同じように眠たそうな目で、同じ柔らかな微笑で、同じ訪問者を見つめる、 「ページのつごうなら、しょうがないよね。どんなことを書いたの?」 「そこだ。せめて貴君には読んでいただきたいと持参した。この本の森がいかに我輩の心をとらえたか是非、読んでほしい」 「うん、いいよ」 白い毛皮、緑の貴族衣装に似つかわしくない唐草模様のふろしき包みを肩からおろし広げて見せる。 雑誌掲載時は4ページほどの写真付き紀行だったが、今、昴の目の前に広げられた紙の束、つまり彼の持参した原稿は数百枚を超えていた。 彼が出身世界でいかに素晴らしい人物だったか、から始まるその一大スペクタクルは今も古書店の倉に眠っている。 「きっとこれもどこかのだれかに何かをつたえたくてかかれたものだから。……たぶん」
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