琥珀色の液体が湛えられた角瓶は既に七割ほど空になっていた。 桂花は残った液体を、氷の残ったコップに流し込んで指でかき回す。 「だからね、語学。言葉ってのはただのツールなのよ。ワカる? ん?」 彼女の目の前にはゼリー状のセクタン。 表情から感情は読み取れないが、お構いなしに桂花の言葉は止まらない。 「だからね、語学ができるーっていうのは包丁が使えるのと一緒。相手との意思疎通ができたからってそれ以上のコトができないと、ほとんど何の役にも立たないの。包丁だけ使えたってレシピを知らなきゃどんな形に切ったらいいのかも分からないじゃない?」 飲酒のペースが早いことは自覚していた。 ねっとりと鼻腔に絡みつく酒精の香りと舌にまとわりつく灼熱感を肴に更に酒を足す。 空腹感がないのは内臓がそれどころではないからだろう。 それでも構わず、桂花は新しい酒瓶の蓋を開けた。今度はジン。 割るものを探したが冷蔵庫をあけてジュースを出してくるのも面倒なので、使い続けているコップにそのまま流し込んでチビチビと舐める。 セクタンの視線が自分を責めているようで、問わず語りもまだ続く。 「ちょっと前までのアタシはそりゃもうスゴかったのよ。有名な外資系で激務やって移動時間で勉強して資格バンバン取って、一歩一歩石にかじりつくように働いてスキルアップして、……確かに、気がついたら同期で残ってる女がアタシ一人だってのはちょっと寂しかったけど、それでも結果はついて来たのよね。立ち上がったプロジェクトのリーダーになったわけよ」 その頃、……と言ってもあれからどれほど経ったのか、杜松の芳香に蕩かされた脳ではすぐに計算ができない。 とにかく、ダークスーツをまとって部下候補を総動員して作成した資料と共に機上の人となり。 現地につくまでの移動時間に読んでいたのが、その国のビジネス書。 「いやーな予感はしたのよね。何が、ってワケじゃないんだけど。それでも、なーんかヤな予感がして」 眠気を感じて窓の外を見た限り、そこは海の上だった。 到着空港までの時間は数時間残されている。 なのに、体に感じた急激な浮遊感。気圧の変化。 機内スピーカーでヒステリックに叫ぶ女性の声。 何を言っていたのかは分からない。 外国語なら任せておけという桂花をして、理解できる言葉は地球にある全ての言語の3%にも満たない。語学とは奥が深いのだ。 そんな事を思っていると飛行機の扉があいて、機内の空気が吸い出され、何人もの人がパラシュートなしでダイブしていく。 「落ちるの!?」 現実感がないままに叫んだ。でも、何語で叫んだのかは覚えていない。 「気付いたら森の中よ。最初は放り出されたかと思ったのよね、確か。あ、ポチ、氷持ってきて。ちょっとキツすぎるわ、これ」 ストレートで量を飲むにはジンの原酒はハードすぎた。 火照った体と脳みそに沁みこんだ酒が、自分で採りに行くと眩暈を起こすと訴えているのでセクタンに依頼してみる。 ポチ、と呼ばれたセクタンは案外従順のようで、すぐさま冷凍庫へ走り、氷と、ついでにオレンジジュースの紙パックも抱えて戻ってきた。 「気が利くようになったわねー。あ、それで気がついたアタシって最初に何したと思う? 手に持ってた書類の再確認よ。バカじゃない? バカでしょ。ほら、どーせあんたもそー思ってるんでしょう!」 ゼリー状の物質はぐにーっと引き伸ばすとそれにあわせて餅のように伸びた。 手を離すとやんわり戻るので、ゴムのように弾けることを予測した桂花の期待は見事に裏切られた事になる。 「で、その無事だった書類に一安心して、自分の旅行用のバッグを探したけど、機内持ち込みにしなかったのがイタかったなぁ。どうせ使わないと思って財布もケータイも荷物ん中。ま、使わないからいいんだけどね。とにかく、助けてって言おうとしたけど、事故のわりには回りに飛行機も犠牲者もないし。ま、でも、そのあたりで落ちたんだからニュースにもなってんでしょって期待して歩き始めたのよ」 が、もちろん、一筋縄ではいかなかった。 桂花が見渡す限り、ほぼ間違いなく原生林だった。 林道もない。獣道すらない。 木の間隔が一定じゃない。 どっちにいけばいいのかすら見当が付かない。 五分ほど呆然としてから、ようやく進行方向を決めた。 「水は低い方に流れる。川があれば飲料水が確保できる。川に沿ってくだれば海がある。河口があるなら人里が近い。……あのね、役に立ったのはビジネスマナーでもプロジェクトの立案方法でもなくて、中学校の理科と地理で習ったことだったわけよ。ああいう時に役に立つのは基本ってことよね。そっから、五日くらい彷徨ったわー。ヒールなくすし、スーツはぼろぼろになるしで、もう一杯一杯。知ってた? ネイルって気合いれてるとコケた時、爪の間に土入るのよ。あと、2、3日お風呂に入ってないから体をかいた時に垢が爪の間にたまるの。もー最低。アンタ、爪ある? あ、ないの? ってか、アンタ、お風呂どうしてるの?」 ポチの体を振ったり、逆さにしたりしてみる。 体を揺らして抵抗するセクタンの姿にけらけら笑うと、先ほどポチの持ってきたオレンジジュースの紙パックにジンを直接流し込んだ。 そのまま、紙パックに直接口をつけてぐびぐびと喉を鳴らす。 「んでねー、飲み水なんか蒸留すれば飲めるらしいんだけどダメねー。火を起こすのが一苦労でしょ? 木をこすって火種にするとかどんなノーキンが考えたんだか。ポチ、ノーキンって知ってる? 脳みそ筋肉の略よ。結局、ぎりぎりまで生水を飲めなくって、限界! ってなった時は正常な思考回路なんて働いてないから、川の水を直接がぶがぶ飲むのよ。よくお腹壊さなかったって今でも思うけど」 彷徨って五日目、川幅が広くなってきたと思ったら、ボートが繋いであった。 「そのボートには生魚が竹籠に入ってたの。ってコトはすぐにそのボートの持ち主が来るってコトじゃない? それで三十分くらい待ったんだけど、やってきたのがまたゴツい髭のオヤジでねー」 何日かぶりに見た人間に話しかける躊躇はなかった。 桂花の専攻は異文化コミュニケーションである。 言葉が通じないのは想定の範囲内。 持っているものが分からないのも想定の範囲内。 日本語はあたりまえとして、英語も仏語も中国語も西語も瑞語もダメ。 「どう見ても土着の一般市民だったのよね、洋服着てるからある程度の文明はあるかなーって思ったんだけど、知ってる限りの言葉で挨拶してもダメだったから、ジェスチャーで意思を伝えようと思ったのよ。ポチも覚えておくといいけど、助けて! のジェスチャーは万国共通じゃないのよ。手を開いただけで失礼になる国もあるくらいだしね。ってコトで、助けて欲しいって意思を伝える万国共通のジェスチャーをやったの。相手に手を伸ばして、そのまま倒れて死んだフリ。これで助けてくれない民族はそもそも人を助けるコトをしない民族よ」 結果的に、桂花はその男に抱えられて近くの村へと運ばれた。 意識を失っているフリをしていたため、自分がベッドに寝かされるまで無防備となる。 それでも、うまくしたもので話の流れだか何だかで自分の世話人がついたようだ。 世話役になったおばさんが話しかける言葉もやっぱり分からない。 第一歩から始めるしかないと、自分を指差して「ケイカ」と発音するところから始めてみた。 「でもねぇ、携帯電話とか飛行機って概念がない相手に存在を伝えるのってなかなか大変なのよね。 気付いたら「空からやってきた」「天空人か?」なんてマジメに聞かれるし。 あ、ここらへんはね、なんとなーく相手の言葉がわかるようになってきてからの話。 コップを持って、指をさす。『水』と発音する。 おばさんがよくわからない言葉を話す。きっと「それがどうかしたのかい?」とか「その水は飲んでもいいよ」とか言っているのだろう。 「その言葉を全部覚えるの。で、何回も何回も水、水、って繰り返す。そしたらおばさんの話す言葉の中で共通する単語があるじゃない? デルンケって四音。 つまり、それは水を指す言葉なわけよ。最初に覚えたのはデルンケ。意味は水。……あ、これはホントはコップって意味だったのよ。ほら、笑いなさいよ」 反応のない唯一の聴衆にリアクションを強制して、ぶにぶにとセクタンのゼリーほっぺを揉みまくる。 「まぁ、壱番世界のどこかだと思ってたから、携帯とかメールとか電話とか。そういう手段で会社に連絡取ろうとしてたアタシは随分と奇妙だったでしょうね。日本だって二十年も前には携帯もメールも普通はなかったのよ。結局、外の情報が入ってきたのは珍しい人がいるって言うんでえらい学者様が尋ねてきた時だったのよ。どうみても妖しい呪術師だったけど。そんで、逆に質問してやったのよね。地図、見せてって。出てきた地図でホントに絶望したもんよー」 知っている地名がない。 知っている地形もない。 桂花も、世界の主要な国家や山や海、それに砂漠の位置や島の形はなんとなく分かるつもりだ。 自称学者とやらがいう「この付近で一番大きな国」の国名すら知らないはずがない。 「もう絶望ってもんじゃなかったわ。いや、当然このインチキが! って思ってたんだけど、何をどうやっても日本に連絡つかないのよ。 そのうち、本当にここは異世界なんじゃないかって思い始めてね。 それでも、いつまでも御世話になるわけにはいかないから、助けてくれたヒゲ男と看護してくれたオバさんの仕事をお手伝いしながら、 なんとか、なんとか生きてたのよ。転機があったのは空を走る電車。 世界図書館のロストナンバーがアタシを迎えに来てくれたのがきっかけ。 0世界に壱番世界。世界の成り立ち。説明を受けてターミナルに受け入れてもらって。 壱番世界に帰れるアテができて」 ぐびり、と最後の一滴までジン入りのジュースを飲み干した。 「アタシを迎えに来てくれたコンダクターに無理いって壱番世界まで運んでもらって、携帯電話借りて親に連絡したのよね。そしたら」 桂花の持つ受話器から硬い母の声が聞こえてきた。 「間違いですか、悪戯ですか。うちの子は飛行機事故で死にました」 そんなの、と言う間もなく、電話は切られた。 ご丁寧に着信拒否まで登録されたらしく、掛けなおしてもコール音すら鳴らなくなっていた。 あわてて携帯電話でブラウザを開き、記憶に残る自分が乗った便名を入力して検索ボタンを押す。 飛行機事故の悲報に続き、邦人犠牲者欄に「臼木 桂花(29)」の名前。 インターネットとは便利なもので、今度は自分の名前を検索ワードにして検索を続ける。 動画サイトにある事故のニュースでは、飛行機の墜落現場は陰惨を極めるもので死傷者は原型を留めていない。 当然ながら、桂花の落下した森ではなく、岩肌の露出した山脈につっこんで燃料に引火、大爆発を起こしたらしく、生存者ゼロのあまりに悲惨な事故がアナウンサーによって読み上げられていた。 新聞には涙する母親の写真まで掲載されている。 扱いはどんどん小さくなり、自分の葬儀が行われた日より後の時系列の資料は出てこなかった。 つまり、自分はただの死者ということだ。 「嘘……」 桂花の全身から力が抜ける。 道路の真ん中であるにも関わらず、携帯電話の画面をぼんやり眺めたまま座り込んでしまった。 一緒にいたコンダクターが何かを言っているが遥か遠くで叫んでいるようで桂花の頭には入ってこない。 「ご丁寧にアパートまで引き払われてて思い出も何も焼却処分。まさに死人ね。 茫然としちゃって、気づいたらアタシはここでこうして酒を飲んでいた」 それから桂花の傍らにはセクタンのポチと、無機質な酒瓶が常に寄り添っていた。 脳までとろかすアルコールの臭いに包まれた気怠い部屋で桂花は酒を呷りクダを巻いては力尽きて眠る。 死んだとされた自分のこと。 自分のいなくなった世界は当たり前だけれど通常通り回っていたこと。 帰る場所。帰れない場所。進むはずだった将来。進むことのできる未来。 何もかもを、思考回路ごと酒に浸して忌避する。 やがて、スーツと床に酒を沁みこませた桂花が寝息を立て始めると、セクタンのポチは空瓶を片付け始めた。
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